歴史・沿革

東光寺の起源

東光寺の歴史は、室町時代の文亀年間(1501年~1503年)に遡ります。

地元の名士・華翁頼瞬(かおうらいしゅん)が山中の庵で座禅に励んでいた際、雷鳴とともに池から龍が現れ、松を登って天へ昇るという霊験を目の当たりにしました。
この出来事を師である希雲和尚に伝えると、「龍が現れる地は必ず霊地である。もしこの地でわが門の道場をはじめたならば末永く伝え興隆するだろう。」との教えを受け、この地を師に寄進しました。

その後、高僧・東陽英朝(とうようえいちょう)を迎え、東光寺が創建されました。

山号「富士山」の由来

東光寺は「富士山(ふじさん)」という山号を持ちます。

これは、薬師堂に納められている薬師如来像が、かつて富士山麓から飛来したから由来しています。
また東光寺は美濃三十三観音霊場第9番札所、美濃新四国第64番札所としても広く信仰を集めています。

境内と庭園
 「岐阜の苔寺」と称される美しさ

東光寺の境内は約3,000坪の広大な敷地を誇り、四季折々の美しい自然が広がります。

特に本堂前の苔庭は「岐阜の苔寺」とも称され、静寂に包まれたその美しさは訪れる人々の心を癒し、本堂「希雲閣」は檜皮葺の屋根を持ち、山県市の文化財に指定されています。

さらに、江戸時代中期の1773年(安永2年)に作庭されたと伝わる主庭園(中庭)は、一面の苔と斜面に自生したドウダンツツジが特徴で、春には白く、秋には真紅に染まる景観が楽しめます。

文化財と美術工芸品

東光寺には、歴史的価値の高い文化財や美術工芸品が数多く所蔵されています。

特に、江戸時代の絵画や彫刻、書籍などが保存されており、これらは禅文化の深さと美しさを今に伝えています。

また、寺院内には貴重な典籍や文献資料も保管されており、研究者や歴史愛好家にとって貴重な資料となっています。

建築様式と伽藍配置

東光寺の建築は、伝統的な禅宗様式を基調としつつ、時代ごとの改修や再建を経て現在の姿となっています。

本堂「希雲閣」を中心に、庫裡(くり)、鐘楼(しょうろう)、経蔵(きょうぞう)、山門などが配置され、全体として調和の取れた伽藍配置が特徴です。

各建物には精緻な木彫や装飾が施されており、職人たちの技術の高さを伺うことができます。

東光寺が輩出した名僧たち

長い歴史の中で、東光寺は数々の名僧を輩出してきました。

江戸時代初期には、後水尾天皇や徳川家光、春日局から帰依された高僧・愚堂東寔(ぐどうとうしょく・愚堂国師)がこのお寺で得度(出家)されました。

また、明治時代には、南禅寺派管長・妙心寺派管長を歴任した豊田毒湛禅師も東光寺二十世の住職でもあり、日本の禅の歴史に大きな足跡を残しています。

臨済宗妙心寺派とは

臨済宗妙心寺派は、日本の禅宗の一派である臨済宗の中でも最大規模を誇る宗派で、その起源は1337年(建武4年)、第95代天皇・花園法皇が自身の離宮を禅寺に改めることを発願し、開山の関山慧玄(かんざんえげん)禅師を迎えたことに始まります。
妙心寺は「正法山」の山号を持ち、修行を重んじる厳格な禅風を特色とする「林下」の代表的寺院として、大徳寺と並び称されます。

現在、妙心寺を本山とする臨済宗妙心寺派には、日本国内外に約3,400の末寺が存在し、その教義は、インドの達磨大師から中国の臨済禅師、そして妙心寺開山の無相大師へと受け継がれた禅の一流を継承し、「坐禅を通じて自身の本質を見つめ、生かされていることに感謝し、和やかな人生を目指す」ことを説いています。
このように、臨済宗妙心寺派は歴史の中で培われた禅の精神を大切にしながら、現代においても人々の心の拠りどころとしてその教えを伝え続けています。

現代に受け継がれる禅と交流

東光寺は歴史と伝統を守りながら、現代においても地域社会とのつながりを大切にしています。

文化財に親しむ「月見茶会」、保護猫活動を支援する「東光寺ねこ日和」、和菓子づくりのワークショップなど、さまざまなイベントやワークショップを開催しています。

また、成人式や結婚式の前撮りスポットとしても人気があり、多くの人々に開かれた寺院として歩み続けています。